自己紹介
代表者氏名
山川 啓亮
名字は小学校1年生の1学期で習う簡単な漢字なのですが、名前の読み方は少し難しく「たかよし」と読みます。由来として、出世するという意味を込めた名前だと以前教えてもらいました。
所持国家資格
- 行政書士(登録番号16132436号)
- 宅地建物取引士(登録番号082948号)
誕生日
昭和54年1月3日 やぎ座
血液型
A型
出身地
生まれは九州の大分県です。
そして小学校に上がる前に家庭の事情で埼玉県の上尾市へ引っ越しそこで育ちました。
学生時代の部活動
空手道部(高校時代)
始めた動機は単純に「強くなりたい」だったのですが、実際に鍛えらたのは肉体よりも精神力の方が遥かに大きかったです。
人としての礼儀作法、継続力や忍耐力などは空手を通して学んだと言っても過言ではありません。この大切な経験は私の宝です。
散々迷惑や面倒を掛けてしまった師範に対し、今も大変感謝しています。
座右の銘
我以外皆我師也(われいがいみなわがしなり)
「自分以外はすべて自分の師」という意味で、「宮本武蔵」で著名な故吉川英治氏が残した至言です。
自分以外の全てから学ぶべきものがある。この言葉に出会ってから現在に至るまで、いかなる極地においても、これを自分の魂に刻んで生きてきました。
趣味
- 漫画好き
- ゲーム好き
- 動画鑑賞
- 音楽鑑賞
ドラゴンボール、キン肉マン、聖闘士星矢などなど
子どもの頃好きだった作品を読み返すのが好きです。
特に手塚治虫先生の作品、その中でも「ブラック・ジャック」は非常に
大きな影響を受けました。私の憧れるヒーロー像です。
スーパーマリオなど、やはり子どもの頃に遊んだゲームを今でも楽しんでます。
いわゆるレトロゲームというものですね。
ゲーム実況動画から仕事に付随する情報動画まで幅広く鑑賞しています。
注意しないと時間があっという間に過ぎてしまいます。
好きなアーティストは村下孝蔵氏、上田正樹氏です。
役所までの移動中に車内でよく聴いたり歌ったりしています。
はじめに
ご依頼人様の立場から、「どういう人が自分の仕事をしてくれるのか」という点は、非常に重要な要素だと思います。
今や情報社会となり、生活や仕事の利便性は飛躍的に向上しました。私たちのような書類作成の専門家に頼まずとも、今や自分で調べて、自分で書類を作り、自分で提出できる時代となりました。たとえ自分では難しい申請だとしても、ネットで検索すれば非常に多くの専門家のホームページが掲載されています。情報が多く選択肢も多い時代。しかし何を基準として選択すればよいのでしょうか。
実は専門的な書類というものは法律等の根拠があって、それに基づいて作成します。例えば許認可を目的に作成される書類は、どの専門家も「許認可を取得する」ための書類を必ず作成しますので、書類の内容が大きく異なることはないのです。大きく異なってしまうと不許可になってしまいますから。
どの専門家に頼んでも基準通りの仕事をしてくれるのであれば、誰に頼んでも同じなのでしょうか。
私は最後は「人」だと思っています。
困っているときだからこそ「誰かに仕事をお願いしたい」、「誰かに相談したい」。
しかし、そんなときに相手がよく分からない人では、値段がいくら安かろうと、不安しかありません。
溢れかえる情報の渦の中で、最後にはその人がどういう人なのか。そこが大事なのではないでしょうか。
では、当の本人である私はどういう人なのでしょうか。
普段、近しい友人や同僚にもあまり自分のことは話さないので少し気恥ずかしいのですが、私が現在に至るまでどのような人生を歩んできたかを簡潔ではありますがまとめました。
少し長くなりますが、もし、お時間が許すならお付き合いくだされば幸甚です。
私の経歴
私は大分県に生まれ、その後に家庭の事情で小学生のときに埼玉県へ引っ越して来ました。
家族は母と妹と私の3人暮らしで、正直、豊かな生活とは縁遠い存在でした。
母は朝早くから夜遅くまで働き、私たち兄妹は家事を手伝う生活でしたが、日々の食事がままならないことも多々ありました。
そのような日々が続き、私は幼少の頃から「早く家を出たい」、「早く働いて自分のお金を稼ぎたい」と毎日のように考えていました。
しかし、ようやく働ける年齢になってみれば、時代は就職氷河期の真っ只中、バブル崩壊のあおりと通貨危機、金融企業の破綻・・
誰もが先を見通せない暗い状況の中、
右も左も分からないまま1人で社会へ飛び出しました。
新聞配達の時代
当時は妹もまだ学生でした。家計に負担を掛けたくないので、18歳のときに住み込みですぐに働ける仕事を探しました。
そこで新聞配達の求人に応募するのですが、面接時に「原付免許がないなら採用できない」と言われて門前払いされてしまいます。
そこで帰りに本屋でテキストを買い3日後に免許を取り、再度面接を受けたのをよく覚えています。
無事に採用されて当時の浦和市(現在のさいたま市)で働くことになり社員の寮へと引っ越し仕事を始めるのです。
しかし、覚悟をしていたとはいえ自分でお金を稼ぐということは本当に大変でした。
自分の成人式の日、前日の記録的な大雪に見舞われて新聞配達が終わらず、結局参加できませんでした。
印刷工場の時代
埼玉県戸田市の印刷工場にて、日勤と夜勤を繰り返しておりました。
当時の印刷業界は携帯電話(ガラケー)が登場し、日本中に爆発的に普及され、分厚いマニュアルを昼夜ぶっ通しで印刷し続ける非常に過酷な職場でした。
24時間、工場の印刷機は止まることなくマニュアルを印刷し続けました。おそらく、当時の現場を知る印刷オペレーターたちは全員口を揃えて「あれは地獄だった」と言うでしょう。
仕事は大変でしたが、携帯電話の普及の一助になっていたのかな、と思うと少し誇らしくもあります。
飲食店勤務の時代
いわゆるガテン系の時代です。
先の状況が見通せない社会情勢の中で、いつ会社が潰れるかも分からない不安から、手に職をつけることに価値を見出していた時代です。
私も手に職を求めて飲食店に入りました。そこでは料理の仕込みから提供だけではなく、材料管理、原価管理、お金の管理、バイトのシフト管理、人件費など多くのことを学びました。ヒト・モノ・カネの管理です。
これまで直感的な仕事をして来た私にとっては、ここでの管理業務や危機管理が後の人生においても非常に有効なものとなりました。
ところで、いくつかの会社で飲食店の勤務をしたのですが、中にはお給料を1カ月まるまる払わない会社もありました。当時は法律のことなど何も知らなかったので泣き寝入りでしたが、こういった苦い経験も現在の業務の糧となっているだろうと自負しております。
注文住宅営業の時代
もともと接客というものに苦手意識があったのですが、飲食店での接客を経て「営業」というものにチャレンジしてみようと思い、さいたま市の住宅展示場に出展していたハウスメーカーに未経験で就職しました。
しかし自分で言うのも何ですが、いま考えれば、住宅に何の知識もない未経験でド素人以下の私をよく採用したな・・と思います。そう考えると感謝しかありません。
そしてこの頃から不動産業務として、市役所や法務局に多く赴くようになります。
まだ土地の登記簿謄本の取得が1件あたり1000円の時代でした。懐かしいです。
不動産取引における必要な知識の量は膨大で、接客基準を満たすまでに多くの勉強・研修・社内試験をこなしました。
それらを経て初めて接客したお客様との打ち合わせは、もう極度の緊張のあまりガチガチで、自分で何を喋っているのかもさっぱり分からない状態でした。
初めはそんな状態でしたが、不器用ながらもハウスメーカーとして営業マンをこなし、おかげさまで何組かのお客様からもご成約をいただきました。
建物も完成し、お客様の協力のもと完成見学会なども実施し、感謝し感謝され、営業冥利につきる仕事の日々を送っていました。現在もお付き合いのあるお客様もいます。
しかし新築の保証期間があると言えど、建てた家は年月とともにメンテナンスが必要で、
その時期や費用などは新築住宅の業界にいたのでは分からないことが多かったのです。
しかし家を購入した人が1番気になるのはそこです。自分の中で葛藤が生まれました。
リフォーム営業の時代
そして私はリフォーム業に転身します。
新しく建てた家がその後どうなっていくのか、いつどんなときに何をしなければならないのかを、現場監督という業務を通じて知ることとなります。
曲がりなりにも新築住宅を売っていた経験が活かせると自負しておりましたが、残念ながらこれまで得た知識や常識や自信などは、まったく役に立たず打ち砕かれます。
新築は何もない状態から設計図どおりに組み立てれば完成しますが、リフォームは現在の家屋の状況を正確に把握しなければ組み立てができません。
- 設計図があってもその通りに造っていないことが多かったり
- 壁を開けたらあるべきはずの柱が、梁が、筋交いがなかったり
- 天井が曲がっていて収納棚が取付けられなかったり
- 解体したらシロアリやGと格闘するハメになったり
- 部品の発注ミスで県内の問屋を探し回ったり、などなど・・
真夏の炎天下、室内気温上昇中。その日に手配した大工さんが来れなくて、自分1人でコルク床を施工したときはさすがに泣きそうになりました。
現場は毎回大変でした。何とか死ぬ物狂いで毎回納めていました。
それでもリフォーム会社を去る頃には、車で走れば
「あそこの家の雨漏りを直したな。こっちの家は暑い日に外壁塗装をしたな。」など
走りながらお世話になったお客様を思い出すくらい多くの工事をさせて頂きました。
測量会社の時代
某ガス会社の依頼を引き受け、道路のどの位置に新しいガス管を入れるか、そのための調査や測量を行う会社で働きました。
私は調査担当に配属され、市役所に赴き図面や情報を収集する業務を任されました。
これまで建築関係の調査で役所を幾度となく訪れていました。しかしまるで違うのです。
今までは役所に備え付けの完成した図面を取得していただけ。
一般的に世に出ている情報を調査してきただけ。
しかし今度は自分たちの計画に照らして協議(対面打合せ)をしなければいけません。
区画整理中ならば区画整理事業者と協議しなければいけません。
県の道路なら県と。国の道路なら国と。
新しい道路は掘削制限が掛かり、タイミングを逃して道路が完成してしまうと、数年はその道路を掘れなくなってしまい事業計画が頓挫します。
調査漏れは許されません。
私はこの調査を6年間担当しました。
そしてこの期間の中で、働きながら行政書士の資格を取得しました。
行政書士法人の時代
資格を取った私は、さいたま市の行政書士法人で働くことになりました。同年(平成28年)に行政書士登録を完了し業務を開始します。
業務内容は都市計画法上の許認可取得です。法第29条の開発行為許可取得が多かったですが、計画地は農地に該当する場合も多く、農地法上の許可なども多く取得していました。
また、土地家屋調査士法人と司法書士法人も社内に併設しており、
- 調査士が測量
- 行政書士が許可取得
- 調査士が分筆登記
- 司法書士が権利登記
などの流れで業務を進行させました。
日々の業務は多忙を極めましたが、これまで建築や道路の仕事に関わってきた私は、ここで今までの経験が初めて「線」で繋がりました。
更地の状態から新しい家が建ち、リフォームで修理修繕し、年月を経て、家の役目を終えて最後に解体されて、その権利を消滅させるまで。
どの段階で何が必要なのか。
それらの全てが繋がって鳥肌が立ったことを今でもよく覚えています。
そして現在、独立し、さいたま市に行政書士事務所を構えております。
私という人間は、今でこそ行政書士として活動していますが、特別良い学校を出たわけでもないですし、輝かしい実績を持っているわけでもありません。
子どもの頃から現在に至るまでひたすら泥臭く、ひねりもなくバカ正直に、どうにかこうにか走ってきた人間です。
始めに申し上げましたが、社会はすっかり情報社会になりました。ひと昔前は顧客獲得のためのセミナーや、営業テクニックのマニュアル本などなど、あの手この手で顧客を獲得するための手法が、これでもかと世の中にはびこっていました。
しかし現在、それらは全てただの小細工となってしまいました。いくら綺麗な文字や画像で着飾って、言葉巧みに自社の商品を紹介しても、実態がついてこなければもう通用しません。見抜かれてしまうのです。
これから先は「本物」しか生き残れません。
ということは結局、「真面目にコツコツと正直に仕事をするのが1番」というのが正直な私の意見です。
これまでもこれからも、子どもの頃から何も変わらない、泥臭く真っすぐな姿勢で、私はお客様から依頼された業務に正面から取り組むのです。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。